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§6:悟性に基づく判断

_私は、敢えて「悟性」と云う語彙を用いた。また、先に「法律の云々を考えるときに学術的な手法を用いてはならない」旨を表明した。そこで、悟性に基づく思考方法とは何を意味するのか、その方法論的契機として参考となる文章があるので紹介する。

1:国際法と公正(知のモラル)

_われわれが国際法の解釈適用に関心をもつのは、もちろん裁判官としてではありません。しかし、最初に挙げた核兵器使用問題のように、国際法について何らかの認識を持つことは必要です。各人が自分の理想によって国際法を語れば、国際法とは個々人の単なる理想の表出でしかなく、国際法は法に本来期待される対立する利益の調整機能をもちえません。国際司法裁判所が国際法の名によって紛争について判断を示しても、それは裁判官のカズイスティックな判断でしかなくなります。理想は千差万別である以上、法も千差万別となり、裁判官を誰がつとめるかで結果が異なります。これでは国際法は法とは言えません。国際法は、自律的な存在として、国際社会を客観的に規律する役割をもっていることを忘れてはなりません。
_しかし、何度も言いますが、国際法には構造的な欠陥がありますから、それを絶対視する態度をとるべきではありません。政府当局者が具体的な意志決定をする際に、法が十分でない分野であれば、他の適切な基準で補って、決定の際の基準とすればよいのです。武力紛争が起こった場合に、核兵器の使用がかならずしも違法でないからといって、核兵器を自由に使用してよいとはなりません。このときの判断基準は「公正[fairness]」とよばれます。それでは、この公正はどのように認識することができるのでしょうか。

_(中略)→日米経済摩擦の例を掲げている。

_公正をどのように捉えるかは、結局は各国政府当局者や関係者のコモンセンスの問題です。しかし、これはあまりに突き放した解答で、答えになっていないと言われても仕方がないので、もう少し客観的に公正を検証する方法を考えてみることにしましょう。

_(中略)→国連海洋法条約・地球環境会議等の例を掲げている。

_今までは、国連総会決議などによって公正を検証できると言ってきましたが、国連総会決議はなにも自然の生成物ではありません。国連加盟国が提案し、他の加盟国の賛同を得て採択されます。したがって、各国は、将来の方向を見据えて、さまざまな分野における公正を検討し、検討結果を国連総会などの国際的なフォーラムで主張し、相互に批判しながら、その結論を決議に盛り込んでいくという主体的な努力が重要なことが分かると思います。討議の初期の段階では、さまざまな議論が出てくるでしょう。政府当局者は、反論も含めて論戦に積極的に参加し、自分の主張に自信がある場合には他の諸国を粘り強く説得することが大切です。国際社会における公正とは何かを考えず、多数の意見に従っておけば安心だと心得て、多数の国が支持する決議に賛成し、問題が起こると、これは単なる勧告だと言い逃れする態度は、それこそ不誠実きわまるものです。
_国際社会において国際法が存在することは、国際社会の安定化のためにきわめて大切なことです。しかし、国際法は国内法と比較にならないほ程の大きな限界を持ちます。その意味では、国際法上のルールを相対化し、別の角度からいえば、法の中核となる公正の基準を豊かなものにする努力が国際社会においては不可欠なのです。このような努力をせず、法の名の下に公正の実現を妨げようとする態度は、そもそも法の基盤にある公正をほり崩すものです。国際法も人間の活動の産物です。包丁などの道具と一緒で、われわれはこれをプラスにもマイナスにも使えます。また国際法の内容が適切でないと考えれば、みずからよりよい法や公正の基準を作る活動に参加できることを忘れてはなりませんし、またしなければならないのです。現代の国際社会では、いぜんとして条約や国際組織の決議を直接に作る作業は政府当局者に委ねられています。しかし、われわれ市民は政府の作業を監視することができますし、また環境問題をはじめとしてNGO(民間団体)が国際法定立や決議採択に大きな役割を果たす場面が増えてきている点を見逃してはいけません。

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知のモラル:小林康夫/船曳建夫編:(財)東京大学出版会
国際法と公正:小寺彰著作:44頁〜47頁から一部を引用した。
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_些か断片的な引用であり、上記の文章だけでは著者の心を捕らえることは望めない。ただ、少なくとも著者はプラグマティストであることが伺える。また、著者は法律の上部構造に「公正」と云う視座を置いている。勿論、市民やNGOは公正を軸にして活動しなければならない。ただ、公正とは何かを論理的に説明せよと求めても、論理が言葉の実体を伴う以上できないと思う。その様な場合、多少荒っぽいかも知れないが、自らの責任に於いて、自らの「悟性」を通じて判断する道しか残されていない様に思う。要は、頭を使ってはならないのである。
_アメリカの文化と日本の文化は異なるが、万事交渉ごとは徹底したディベートを行うか、或いはナアナアで終わらせるかの違いがある。すなわち、横車を押す慣習と暖簾を押す慣習との違いであるが、どちらも「公正」を配慮した交渉ごととは思えない。ならば、中庸を求めよと云っても、文化や方法論が異なる故に「軸」となるものが見当たらない。様々な理由があり、中庸を配慮できないならば、概ね公正に視座を置くことしか方法が残されていないとも考えられる。では、公正とは何かである。

2:公正と云う理法】

_西洋文化を旨とした近代国際社会では、ディベートの方法論を通じてもたらされた結果に公正の名を冠せられるのであろう。故に、ディベートの敗者となるや否や、公正な意見を呈していなかったと判断されるのかも知れない。日本人は、その文化的背景から、ディベートではなく稟議に基づく合意・合議を旨としている。稟議とは、すなわち根回しである。根回しとは云うが、些か封建的要素を残した階層構造を伴うものである。故に稟議と表現したのである。横文字を使えばヒエラリカル・ラウンドロビンと表現しておこう。
_議論が小田原評定に陥らない為には、程度の差こそあれ、より合理的な方法を工夫する必要がある。最も単純で且つ明快な方法は多数決である。故に、政治の世界では議席の確保に鎬(しのぎ)を削るのである。或いは、場合によってはルール違反になるかもしれないが談合である。談合による入札の様式はラウンドロビンそのものである。
_多数決であれラウンドロビンであれ、方法を誤ると「公平」を欠く恐れがあり、確かに合理的な方法であるが、適切な判断基準としてみなすには限界を感じるであろう。方法が人間的と云うよりは機械的である。議論が決しても何となく釈然としない。自らが意図する案件が多数決で勝(まさ)ったとしても、或いは順番が回ってきて機会が与えられたとしても、果たしてこれで良いのかと疑問が残る。その様な経験をした覚えはないだろうか。

3:公正な慣習は法の源である】

_私が「公正」に拘泥する理由はふたつある。ひとつは先の著作権法第32条の条文に「公正な慣行」と明記してあり、加えて、「公正」と同じくして「正当」や「誠実」等、法の上部構造に属する語句がある。これらの語句は、著作権法はもとより他の条文にも多く観られるからである。また、「知のモラル」の内容を考えると、国際法を理解する、ひいては国際問題の解決方法を見いだすには、どうやら「公正」が理解の鍵になると期待したからである。
_加えて、国際法を考えるにあたり、その法源となる条約を適正に解釈しなければならない。条約を、国際法の法源として規定したものは先に示したウィーン条約である。ウィーン条約を斟酌しない限り、条約そのものの意義(内容)や条約の効力を云々することはできない様に思う。そこで、私は、ウィーン条約こそ「公正」な判断基準を通じて解釈・理解しなければならないと感じたのである。
_立法条約と云う範疇を考え合わせると、ウィーン条約だけでなく国際連合憲章もそうである。ここで、運用が抜けている理由は、ウィーン条約や国際連合憲章は運用できる法律ではないからである。よって解釈・理解としたのであるが、実際に運用されるものは、その他諸々の条約ないし国内法である。

4:法律の上部構造としての公正】

_国内法は、主権国家が定めた法律である。すなわち、明確な三権分立が為され中央集権的な運用が可能である。よって、我々は、これらを具体的且つ明確な判断基準として考えて良い。反面、国際法は、各々の主権国家が持ち寄った理念によって構成されている。すなわち、明確な三権分立が為されず中央となるものも見いだせない。確かに「軸」となりそうなものはウィーン条約や国際連合憲章等の立法条約に見いだせるかも知れない。しかし、国連には主権国家に代わる機能は望めない。国際司法裁判所とは云うが、特定国家の最高裁に代わる機能は望めない。また、国際法は条約による明文規定を旨としているが、実際は国家間の慣習による合意が多く観られる。
_ウィーン条約はもとより、視座を国内法から国際法に拡大したならば、「公正」と云う概念の比重が益々大きくなる。国際社会は、概ね文鎮型の組織であり、主権国家の様なピラミッド型の行政組織ではない。故に、権威・強制・中央・主権と云った語彙から遠く離れた概念、すなわち、公正・勧告・相対・自律と云った語彙の実体を伴うのであろう。公正・勧告・相対・自律と云う語彙を並べたが、ここでは「公正」が主眼なので、一概に解することのできない概念の代表として、以降も「公正」のみに言及する。

5:法の上部構造を見いだす】

_先にも同じ様なことを述べたが、論理的な解釈を為し得ない語彙があるとしよう。その語彙が意味するところの概念実体を見い出したいのであれば、自らの責任に於いて自らの悟性に通じるしかないとした。先ず、公正は法の上部構造であることには違いない。また[jus-cogens]もそうだと判断できる。
_人間の営みを通じてもたらされた法ではあるが、その上部構造は神の領域にあるとみなしても良い。法の上部構造を解するにあたり、もはや、論理的な技法を用いる術はなく悟性に頼るしかないと考える。考えるが、悟性も人間のものであるから利器としては少し足りない。法の上部構造を神のものとして表現したが、神も人間の作った想念である以上、ややもすると荒唐無稽な推論を呈する可能性が大きい。
_神は人間の作った想念体であるとした。よって、神に代わる想念体すなわち理念系をもたらすことを考える。係る理念系とは人間のものであってはならない。先に、国内法の上部構造となるものは「時間軸」や「宇宙」等と評したが、これらは人間のものではないが同時に理念系でもない。ここまで来て、唯一判断できることは、人間の範疇にない事象を人間が考えてはならないことである。もはや、法の中心となる「公正」の実体は時間の経過によって見いだされると信ずるしかない。或いは、空間の超越によって見いだされる可能性もある。時間の経過とは、すなわち人間社会の進化を伴うものと考えても良い。

6:世界空間を超越する】

_時間の経過と共に進化ないし進歩を求めるのであれば、より多くの人間が国際問題を認識し何某かの解を求める様に努力しなければならない。地球上の時間は24時間と定められている。では、同じ時間を過ごすなら、国際問題なら国際法、国際法なら公正として、係る思考をより多くの人間によって為されることを望むしかない。核兵器にしてもそうである。また、国連勧告にしてもそうである。
_幸いにして、この文を読んでいる貴方は、空間を超越する利器を既に手にすることができている。すなわちインターネットである。インターネットは既存の通信方法とは異なり、費用は低廉であり使用は簡便である。また、既存のマスメディアと異なり通信は双方向性であり民主的である。然るに空間を超越する利器としたのである。
_インターネットと来ればコンピュータである。空間を超越する利器がコンピュータの要素技術によって実現できるなら、同様に時間を超越する利器ももたらされるではないかと考える。すなわちシミュレーションである。その様に考えることもできる。できるが、この問題、すなわち文明に関する問題を解する場合、断じてシミュレーションを用いてはならないのである。この方法でもたらされた結果は、人間の悟性を通じた処理ではないのである。然るにシミュレーションは時間を超越する利器とはならないのである。
_私は、時間を超越する代わりに、より多くの人間に依る連携を考えてみよう。分かり易く云えば、数百万から数千万の人間によるコンカレント処理である。また、係るコンカレント処理をより合理的に行う為には、人間の数を多くすることはもとより、各々の人間同士の意志の疎通を簡便にすることと捉えたのである。故にインターネットなのである。また、インターネットの中身となるコンテンツは、人間の悟性によってもたらされるものである。蛇足ではあるが、人間の悟性とは専ら個人のものであって、決して特定の団体や組織のものではない。よって、いわゆる個の確立を達成して、自律的に物事を思考する習慣をつけなければならない様に感じる。

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